シノン城とジャンヌの宿泊したクードレイ塔の奇妙な一致について~続・ジャンヌを巡る旅・2日目~
シノン城の記事を書こうとして、構成に色々と迷ってしまいました。
シノン城では書きたい事が沢山あり、語りたい事をまとめるのも一苦労です。
まずはシノン城自体の写真を残していきたいと思います。
2018年10月24日の私は今、シノン城の前に立っています。

この正面から見えるシノン城の時計塔の形は結構特徴的なのでご存じの方も多いのでは無いでしょうか?
この部分はシノン城の中で『聖ゲオルギウスの砦』と呼ばれている部分です。一目見て思いつくイメージは『壁』です。
この時計塔は、違う角度から見るとこんな感じです。

なんだか正面からの印象に比べて薄く見えませんか?
最初にこれを見た時、なんだか倒れそうと思ってしまいました。
なんでもシノン城は5世紀頃には元になる砦があったそうです。
きっと数々の戦いの中でより頑強になっていったのでしょうね。
そのせいでしょうか?フランスの王様が居住していたにも関わらずこのお城は、一般的な日本的なイメージの『中世ヨーロッパの王城』という優雅さはあまりなく、『砦』という方がふさわしい気がします。
公式のフランス語のサイトでも要塞(forteresse)と表記されていました。
この大きな門型の塔を潜るとシノン城の中に入っていくことが出来ます。

そこに至る橋は、手すりが低くて幅も狭く、高所恐怖症の私にはちょっと怖い橋です。
橋を渡って広がるのが、『ミリューの城』と呼ばれるスペースです。
公園スペースが広がっていて左手前にお目当ての空間があります。

ここはジャンヌがシャルル王太子に謁見した大広間の在った場所です。
その後の2人とフランスを左右するとても重要なスペースです。
崩れてしまって大広間自体は残っていません。

この場所に関しては後ほど別記事を作成したいと思います^^
残っている建物はシャルル7世も実際に生活した、王の住むスペースです。
横から見るとこんな感じです。今は博物館になっています。

他のお客様がこの遺構を見ながら日向ぼっこをしています。
なんとも贅沢で羨ましい休日です。
シノン城はその歴史の中で大きく荒廃していた時期があります。
それを復興させたのは19世紀のナポレオン3世の時代と聞いています。
私の知る荒廃した時代のスケッチからすると、この部分も壁2面を残して崩れてしまっていた様子です。

歴史を後世に伝える事業の大切さをここでも感じることが出来ます。
先程の大広間の在った場所の脇には展望台があります。
ここからはシノンの城下町が一望できます。

この日は本当に快晴で、どこを見ても空もロワール河も青く輝いています。

シノンの町は建物も可愛くて、街歩きだけでも本当に楽しい街です。
まだまだ見所あります。公園の一角にはこんなものが・・・

中世の戦争で使われていた投石器です。石も物凄く大きいです。
これが飛んで来たらと思うとぞっとしますね。
『ミリューの城』区画を西に抜けると、また橋があります。

今度の橋もちょっと怖いです。
横から見るとこんな感じです。

今度の橋は手すりがちょっと高めなのは良いのですが、幅が狭いです。
その先にあるのが、先程出てきた大広間の次に見るべきポイントの「クードレイの塔」と呼ばれている塔です。

ジャンヌはこの城で王太子だったシャルルに謁見した後、この塔はの最上階を貸し与えられて逗留を認められました。
中はこんな感じです。

なんだか穴がいっぱい開いています。
なんでも18世紀頃にはハト小屋になっていたそうです。この穴はその頃加工されたのでしょうね。
この塔、地下もあります。

正直、かなり雰囲気の怖い場所です。

それもそのはず、ここは牢獄として使用されていた場所です。

ここに捕らえられていた人の中で有名なのが、13世紀終わりから14世紀初めにかけての人物、テンプル騎士団の騎士団総長ジャック・ド・モレーです。
フランス国王フィリップ4世に異端審問の罪を着せられて騎士団は壊滅し財産は没収。騎士団総長ジャック・ド・モレーは1314年に生きたまま火あぶりとなりました。
ジャンヌ・ダルクと同じですね。違う時代に生きて、同じ塔で過ごした2人が同じ運命を辿る・・・これも歴史のいたずらでしょうか。
異端審問での罪状は男色、反キリストの誓い、悪魔崇拝です。
この3点セットでの異端審問で処刑、財産没収の流れはジャンヌの戦友のジル・ド・レにも重なります。
こうなってくると、フランスのお家芸なのだろうか?
果たしてジル・ド・レは本当に罪を犯していたのだろうか?
と勘繰りたくもなってきます。
以上がシノン城の歴史ポイントでした。
でもシノン城には書いてみたいポイントが後2点ほどあります。
もう少しこのお城でゆっくりしていきたいと思います^^
<<まとめページにもどります。>>
シノン城では書きたい事が沢山あり、語りたい事をまとめるのも一苦労です。
まずはシノン城自体の写真を残していきたいと思います。
2018年10月24日の私は今、シノン城の前に立っています。

この正面から見えるシノン城の時計塔の形は結構特徴的なのでご存じの方も多いのでは無いでしょうか?
この部分はシノン城の中で『聖ゲオルギウスの砦』と呼ばれている部分です。一目見て思いつくイメージは『壁』です。
この時計塔は、違う角度から見るとこんな感じです。

なんだか正面からの印象に比べて薄く見えませんか?
最初にこれを見た時、なんだか倒れそうと思ってしまいました。
なんでもシノン城は5世紀頃には元になる砦があったそうです。
きっと数々の戦いの中でより頑強になっていったのでしょうね。
そのせいでしょうか?フランスの王様が居住していたにも関わらずこのお城は、一般的な日本的なイメージの『中世ヨーロッパの王城』という優雅さはあまりなく、『砦』という方がふさわしい気がします。
公式のフランス語のサイトでも要塞(forteresse)と表記されていました。
この大きな門型の塔を潜るとシノン城の中に入っていくことが出来ます。

そこに至る橋は、手すりが低くて幅も狭く、高所恐怖症の私にはちょっと怖い橋です。
橋を渡って広がるのが、『ミリューの城』と呼ばれるスペースです。
公園スペースが広がっていて左手前にお目当ての空間があります。

ここはジャンヌがシャルル王太子に謁見した大広間の在った場所です。
その後の2人とフランスを左右するとても重要なスペースです。
崩れてしまって大広間自体は残っていません。

この場所に関しては後ほど別記事を作成したいと思います^^
残っている建物はシャルル7世も実際に生活した、王の住むスペースです。
横から見るとこんな感じです。今は博物館になっています。

他のお客様がこの遺構を見ながら日向ぼっこをしています。
なんとも贅沢で羨ましい休日です。
シノン城はその歴史の中で大きく荒廃していた時期があります。
それを復興させたのは19世紀のナポレオン3世の時代と聞いています。
私の知る荒廃した時代のスケッチからすると、この部分も壁2面を残して崩れてしまっていた様子です。

歴史を後世に伝える事業の大切さをここでも感じることが出来ます。
先程の大広間の在った場所の脇には展望台があります。
ここからはシノンの城下町が一望できます。

この日は本当に快晴で、どこを見ても空もロワール河も青く輝いています。

シノンの町は建物も可愛くて、街歩きだけでも本当に楽しい街です。
まだまだ見所あります。公園の一角にはこんなものが・・・

中世の戦争で使われていた投石器です。石も物凄く大きいです。
これが飛んで来たらと思うとぞっとしますね。
『ミリューの城』区画を西に抜けると、また橋があります。

今度の橋もちょっと怖いです。
横から見るとこんな感じです。

今度の橋は手すりがちょっと高めなのは良いのですが、幅が狭いです。
その先にあるのが、先程出てきた大広間の次に見るべきポイントの「クードレイの塔」と呼ばれている塔です。

ジャンヌはこの城で王太子だったシャルルに謁見した後、この塔はの最上階を貸し与えられて逗留を認められました。
中はこんな感じです。

なんだか穴がいっぱい開いています。
なんでも18世紀頃にはハト小屋になっていたそうです。この穴はその頃加工されたのでしょうね。
この塔、地下もあります。

正直、かなり雰囲気の怖い場所です。

それもそのはず、ここは牢獄として使用されていた場所です。

ここに捕らえられていた人の中で有名なのが、13世紀終わりから14世紀初めにかけての人物、テンプル騎士団の騎士団総長ジャック・ド・モレーです。
フランス国王フィリップ4世に異端審問の罪を着せられて騎士団は壊滅し財産は没収。騎士団総長ジャック・ド・モレーは1314年に生きたまま火あぶりとなりました。
ジャンヌ・ダルクと同じですね。違う時代に生きて、同じ塔で過ごした2人が同じ運命を辿る・・・これも歴史のいたずらでしょうか。
異端審問での罪状は男色、反キリストの誓い、悪魔崇拝です。
この3点セットでの異端審問で処刑、財産没収の流れはジャンヌの戦友のジル・ド・レにも重なります。
こうなってくると、フランスのお家芸なのだろうか?
果たしてジル・ド・レは本当に罪を犯していたのだろうか?
と勘繰りたくもなってきます。
以上がシノン城の歴史ポイントでした。
でもシノン城には書いてみたいポイントが後2点ほどあります。
もう少しこのお城でゆっくりしていきたいと思います^^
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